※この記事には、地震や津波、被災当時の記憶についての記述があります。読むのがつらいと感じる方は、どうか無理をなさらないでください。
旅に積んでいた罪悪感
Margin_Archiveさんの記事を読んだ。
家族で宮崎へ旅行する直前に熊本地震が起きて、
「こんな時に旅行へ行っていいのだろうか」
という迷いを抱えたまま、旅に出たという話だった。
そして旅先で何度も、
「来てくださって、本当にありがとうございます」
と言われたという。
Marginさんは、ありがとうと言うのはこちらの方だと思っていた。
けれど現地の人たちから返ってきたのは、
「来てくれてありがとう」
という言葉だった。
その記事から、私はひとりの古い友人のことを思い出した。
今はもう話すことのない友人
今はもう、つき合いのない人だ。
私が書いているnoteの『彼の沈黙、私の記憶』の中では、岡本という名前で登場している。
高校時代からの悪友で、私の人生のかなり長い時間を一緒に過ごした人だった。
岡本という人について知りたい方は、こちらを読んでいただければと思う。
岡本は大学受験の時、自分が何に向いているのか、どんな学部へ進めばいいのか迷っていた。
その時、私はある大学の国際商学科を勧めた。
彼は自分で大学を探し、実際に見に行き、
「のあが勧めてくれた、ここを受けることにした」
と決めた。
何年か浪人したあと、その大学に合格した。
大学へ入ってから、彼はバックパッカーになった。
特によく行っていたのがタイだった。
タイは本当にいいところだと、何度も私に話していた。
そして彼は、最終的にタイの航空会社へ就職した。
もちろん、その人生を選んだのは彼自身だ。
それでも、最初の分かれ道に私の言葉があったことを、今でも時々思う。
2004年12月26日
2004年12月26日。
スマトラ島沖地震が起きた。
大きな津波がタイ南部を襲い、プーケットでも多くの人が亡くなった。
私はそれ以前にバンコクを訪れ、プーケットにも二度ほど足を運んでいた。
表側は美しい観光地だった。
けれど、少し裏へ入ると、貧しい暮らしをしている人も多く、ゴミが積み上がり、建物も傷んでいた。
それでも私は、プーケットが好きだった。
星に吸い込まれてしまいそうな夜。
静かな朝焼け。
今でも時間と資金があれば、何度でも訪れたいと思っている。
地震のあと、岡本から電話がかかってきた。
彼はひどく混乱していた。
タイがこんなことになってしまった。
自分に何ができるのか分からない。
航空会社に勤めていても、飛行機を飛ばすことすらできない。
彼があれほど弱った声を出したのを、私はそれまで聞いたことがなかったように思う。
私たちは阪神・淡路大震災を経験していた。
それでも、あの時の岡本の動揺は、それ以上に大きいように見えた。
好きで何度も訪れた国。
自分が働く場所。
そこに暮らす人たち。
仕事としての対応にも追われながら、個人としても深く傷ついていたのだと思う。
「とりあえず、お金を落としてくるわ」
やがて、少しずつ飛行機が飛べるようになった。
その時、岡本は言った。
「とりあえず、お金を落としてくるわ」
行ったところで、自分に何ができるのか。
最初はそう言っていた彼が、自分なりの答えを見つけたのだと思う。
現地へ行く。
泊まれるところに泊まる。
営業している店で食べる。
小さな商店で買い物をする。
そこで生活している人たちへ、お金が渡るようにする。
彼がいつも泊まっていた宿は、もう宿泊できる状態ではなかった。
瓦礫の山になっていた。
それでも彼はプーケットを歩き、営業している小さな店を探して買い物をした。
その後、サムイ島にも渡り、何日か滞在した。
彼が実際に何をしてきたのか、私はもう細かくは覚えていない。
ただ、
「こういう国では、お金を落としてくることが、そこで暮らす人の助けになる」
「だから、お前もプーケットに行ってきてくれよ。俺がコーディネートするからさ」
と強く話していたことだけは、今も覚えている。
再び訪れたプーケット
スマトラ島沖地震から数年後。
私も夫と一緒に、プーケットを訪れた。
島は驚くほどきれいになっていた。
本当に、ここで津波が起きたのだろうかと思うほどだった。
街には色が戻っていた。
トゥクトゥクも整備され、以前よりさらに観光地らしくなっていた。
現地で暮らす人たちにとって、それはきっと良いことだったのだと思う。
けれど私は少しだけ、
また思い出が消えてしまった、
とも感じていた。
昔のプーケットの景色がどこにもなくなってしまったようで、寂しかった。
津波の写真を売る店
お土産屋さんを回っていた時、さらに驚いたことがあった。
あの津波が街を襲った時の写真が、商品として売られていた。
津波に襲われる街。
壊れた建物。
被害を受けた人たちの姿。
私には衝撃が大きすぎて、
これを売るんだ。
これも商売にするんだ。
と、しばらく写真の前で立ち尽くしてしまった。
日本でも、震災の写真集のようなものが新聞社などから出版されていたので、それと同じようなものなのかもしれない。
けれど、場所はお土産屋さんだった。
写真が一枚ずつ、商品として壁に並べられていた。
悲しい出来事を商品にすることに、その時の私は戸惑った。
けれど今になって考えると、それもまた、この土地で生きていくためのひとつの方法だったのかもしれない。
津波によって、たくさんの命が失われた。
その一方で、あの大変な状況の中でも、生き残った命があった。
当時のニュースで、タイ南部の津波被災地で生き残った女の子に、「TSUNAMI」という名前がつけられたと知った記憶がある。
調べ直してみると、その子の母親は妊娠中に津波に流されながらも生き延び、その後、無事に女の子を出産したという。
村にいた妊婦たちの中で、その子だけが助かったことから、「TSUNAMI」と名づけられたと伝えられている。
悲しい出来事の名前を、それでも生き残った命の証として子どもにつける。
津波の写真を売ることも、
生き残った子に、その出来事を忘れない名前をつけることも、
あの時の私には、すぐには理解できなかった。
でも、悲しみを隠して、なかったことにするのではなく、
それさえ抱えて生きていこうとする人たちの強さなのかもしれない。
前を向くというのは、すべてを忘れることではない。
起きたことを抱えたまま、それでも暮らしを続けていくことなのだと思った。
「また僕たちを見に来てね」
ひたむきに前を向いている人たちを見て、私にもできることをしたいと思った。
食事をして、買い物をして、払えるだけのお金を払った。
私の英語は片言だ。
それでも現地のホテルの従業員に、
「地震、大変だったね」
と声をかけた。
その人は涙ぐみながら、言葉をかみしめるように話してくれた。
本当に辛かった。
あんな思いは二度としたくない。
でも、あの津波がなかったら、こういうふうには思えなかったかもしれない。
そして最後に、
「来てくれてありがとう」
「また僕たちを見に来てね」
と言った。
その言葉は、今も私の中に残っている。
被災した直後の私は
私は、いくつかの地震を経験してきた。
阪神・淡路大震災の時は、家財道具に挟まれ、親に引っ張り出された。
お嬢が小さい頃には、東日本大震災が起きた。
友達の家が津波で流された。
そのほかにも、故郷に近い場所で起きた地震のニュースに、何度も胸をえぐられてきた。
被災した直後に、
「大丈夫ですか」
「頑張ろうね」
と言ってもらうことは、本当にありがたい。
けれど、あの時の私は、
今は放っておいてほしい。
話しかけないでほしい。
と思っていた。
誰かの言葉を受け取る余裕もなかった。
「ありがとう」と言う余裕なんて、なかった。
大切な人を亡くし、ただただ瓦礫の山を見て呆然とするしかなかった私に、
何が言える?
まだ若かった私には、涙を流すことしかできなかったんだよ。
大切な人が突然いなくなって悲しみしか感じない私には前を向くことなんてできなかった。
30年以上も前のことなのに、この記事を書いている今も思い出す。
思い出すと、今でも涙が出る。人にはまだ話せなかった私がいる。
だからこそ思う。
被災した土地で、
「来てくれてありがとう」
と言えた人たちは、すごい。
きっと、いろいろな気持ちがあったと思う。
不安。
もう駄目かもしれないという思い。
そんな後ろ向きな気持ちと、
助かった。
ここから頑張っていこう。
という前向きな気持ち。
Marginさんが宮崎で受け取った言葉も、
私がプーケットで受け取った言葉も、
ただ観光客を歓迎するための言葉ではなかったのだと思う。
傷ついた場所で、もう一度人を迎える。
もう一度、誰かに来てほしいと言う。
それは、とても強い言葉だと思う。
何もできなかったと思う時に
災害が起きるたびに、私は思う。
何もできなかった。
何もしてあげられなかった。
けれど、自然を止めることはできない。
大きな災害を前にしたら、私ひとりにできることなんて、本当に少ない。
それでも、行けるようになった時に行くこと。
食べること。
泊まること。
買うこと。
その土地を忘れないこと。
また会いに行くこと。
それも、ひとつのできることなのかもしれない。
もう岡本と話すことはない。
それでも、
「とりあえず、お金を落としてくるわ」
と言った彼の言葉は、今も私の中に残っている。
人との関係が終わっても、
その人から受け取った言葉まで、すべて消えるわけではない。
今回、Marginさんの記事をきっかけに、22年前の岡本の声と、プーケットで受け取った言葉が静かに戻ってきた。
「来てくれてありがとう」
あの言葉を口にできた人たちの強さを、私はたぶん、これからも忘れない。




“For now, I’m just going to go drop off some money” stayed with me. It sounds almost too simple at first, but going back, staying, eating, and buying from local people can be a real way of refusing to let a wounded place disappear from the world’s attention.
津波の写真の話や、女の子の名前の話など、知りませんでした。
衝撃でした。それでも生きていこうとする逞しさとか、思い出すからやめてくれと周りは言わなかったのだろうかとか、いろんなことが頭を駆け巡って正直まだ整理がつきません。
貴重な経験を書いていただけて、今この時期に読めてよかったと思います。
ありがとうございます。